創業大正15年の落ち着き
新潟といえば、1955年の大火で古町では多くのものが失われた。新潟眼鏡院では戦前ドイツから輸入した検眼機が難を逃れた。そして、昭和60年代にHOYAから贈られたというシャンデリアが今も現役で活躍している。モノだけではない。「新潟は戦後進駐軍が来てて、父親は英語が出来たからいろいろな人が出入りするようになって、いつの間にか店は文化人のサロンみたいになっていった。メガネっていうより文化を売ってる感じ。」と上田社長。当時、歌人會津八一や俳人高野素十らがお客様だったという。これらが生み出す歴史の厚みを纏って、実に落ち着いた雰囲気の店内である。
地域とともに生きる
新潟眼鏡院のある古町の商店街も、ご多分に漏れず決して絶好調というわけではないが、上田社長は商店街をどうするかということはあまり考えないという。「それぞれの店がちゃんとやってれば、最終的には商店街も元気になる。大阪の陣で言えば大阪城が落ちて真田丸だけ生きてるみたいな。最後は精神力。」そう言いながらも、商店街の話になると力がこもる上田社長。地下街や駅ビルが出来た時の出店も断り、古町十字路一筋。「この地域の中心。そこでやってる誇りは持たないと。」とやはり新潟、そして古町への愛では人後に落ちない。
困ったときこそ頼れる眼鏡店でありたい
新潟眼鏡院のホームページには、「困ったときこそ頼れる眼鏡店」とある。上田社長に尋ねると、「眼科で視力が上がらないとか、他でダメだったとか、本当に困っている人が来るんですよ。長くやってると、本当にいろいろなことがあります。困ってる人は近県からも来る。」「目の悪い人が最初どこ行くかっていったら眼科。うちは眼科はもちろんだけど、障がい者施設や福祉施設とか盲学校へも行ったり、全部やってる。手話のできるスタッフもいるので、みんなとつながってる。医者も販売スタッフも結局は人対人だからね。」
上田茂代表取締役「ひとつのことを長く続ける」
結局は消費者の支持、消費者が決める。何もしなくていいわけじゃない。昔に固執しちゃいけないけど、あまり早く動いても誰もついてこられない。といって、あきらめちゃいけない。オリンピックじゃないけど、一つのことを長くやる。人それぞれかもしれないけれど、そこには何かがある。だからお客様とのつきあいも、正攻法、王道を行くのがいいと思っています。